第三祖日目上人と広布への願業(だいさんそにちもくしょうにんとこうふへのがんぎょう)
日目上人(にちもくしょうにん)のご事蹟(じせき)
代々(よよ)を経て 思いを積むぞ 富士の根の 煙よ及(およ)べ 雲の上まで
「辞世(じせい)の歌」
第三祖日目上人は文応元年(1260年)、伊豆国仁田郡畠郷(いずのくににいだごおりはたけごう「鈴岡健函南町」)に出生し、幼名を虎王丸(とらおうまる)と称されました。母は、南条時光の姉です。日興上人が伊豆に弘教されたときに弟子となり、そののち、身延に登って日蓮大聖人に常随給仕し、宮内卿の公(くないきょうのきみ)、のちに新田卿阿闍梨(にいだきょうあじゃり)と称されました。
日目上人は、東北から東海に至る各地に弘教するとともに、幕府および朝廷に生涯四二度にわたる諌暁(かんぎょう)をされました。
正応3年(1290年)10月13日、日目上人は日興上人から内付嘱(ないふぞく)を受けられました。さらに元弘2年(1332年)11月10日、一閻浮提(いちえんぶだい)の座主(ざす)と定められて、本門戒壇の大御本尊を相伝されました。
翌元弘3年10月、日目上人は第四世日道上人(にちどうしょうにん)に唯授一人(ゆいじゅいちにん)の血脈(けちみゃく)を相承し、同年11月15日、天奏(てんそう)の途上、美濃国垂井(みののくにたるい岐阜県垂井町」)において74歳で入滅されました。
大聖人への常随給仕
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■師への給仕(しへのきゅうじ)
日目上人は、17歳で日興上人の弟子となったのち、大師匠である日蓮大聖人のもとに上がり、弘安5年(1282年)に大聖人がご入滅されるまでの7年間お仕えして、修学研鑽(しゅうがくけんさん)に励まれました。 |
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第四世日道上人筆
『御伝土代』 |
■問答の巧者(もんどうのこうしゃ)
日目上人は、弘安5年(1282年)9月、23歳のとき、武蔵国池上宗仲邸(むさしのくにいけがみむねなかてい)において日蓮大聖人の命を受け、幕府の要人の二階堂伊勢守(にかいどういせのかみ)の子で天台僧の伊勢法印(いせほういん)と十番問答(じゅうばんもんどう)を行い、これをことごとく論破しました。 |
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弟子と共に
京に向かわれる日目上人 |
■天奏(てんそう)
日目上人は生涯をとおして、鎌倉の武家や京の朝廷を諌暁され、その数は実に四十二度にも及びました。 |
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日目上人最後の『申状』
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■広布への願業(こうふへのがんぎょう)
日目上人の辞世の歌に 本宗では、日目上人を「一閻浮提の御座主」と尊称しますが、これは『日興跡条々事(にっこうあとじょうじょうのこと)』に「本門寺建立の時、新田卿阿闍梨日目を座主と為(な)し・・・」と記されたことによります。 日目上人の広布への願業と正法厳護の精神は、今もなお歴代上人に脈々と受け継がれています。 |
インデックス
1. » ご誕生から宗旨建立
2. » 鎌倉弘教
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8. » 血脈相承とご入滅
10. » 第三祖日目上人と広布への願業
『日蓮大聖人のご生涯と正法伝持』より