第二祖日興上人と大石寺(だいにそにっこうしょうにんとたいせきじ)

日興上人(にっこうしょうにん)のご事蹟(じせき)

富士の立義聊(りゅうぎいささか)も先師(せんし)の御弘通(ごぐずう)に違(い)せざる事

「日興遺誡置文(にっこうゆいかいおきもん)」

第二祖日興上人は、寛元4年(1246年)3月8日、甲斐国大井庄鰍沢(かいのくにおおいのしょうかじかざわ「山梨県富士川町」)に誕生されました。正嘉2年(1258年)、日蓮大聖人の弟子となり、名を伯耆房(ほうきぼう)、のちに白蓮阿闍梨日興(びゃくれんあじゃりにっこう)と称されました。
日興上人は、常に大聖人に随って給仕し、また各地で弘教に励まれました。
弘安5年(1282年)、日興上人は大聖人より仏法の一切を付嘱され、身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ)の別当(べっとう)となられました。しかし7年後、地頭波木井実長(じとうはきりさねなが)の不法により身延が謗法(ほうぼう)の山となったため、日興上人は大聖人の正義(しょうぎ)を護(まもる)るために身延を離れ、翌年、富士上野(静岡県富士宮市)に大石寺(たいせきじ)を開創(かいそう)されました。
元弘2年(1332年)、日興上人は日目上人(にちもくしょうにん)を一閻浮提(いちえんぶだい)の座主(ざす)と定め、翌元弘3年2月7日、88歳で入滅されました。

大聖人を慕い弟子入りを請う伯耆房
大聖人を慕い
弟子入りを請う伯耆房
■常随給仕と弘教(じょうずいきゅうじとぐきょう)

日興上人は、日蓮大聖人が一切経(いっさいきょう)を閲覧されるため駿河国岩本(するがのくにいわもと「静岡県富士市」)の実相寺(じっそうじ)へ下向(げこう)されたおりに弟子となりました。それ以来、日興上人は、大聖人の弘長元年(1261年)の伊豆配流(いずはいる)や、文永8年(1271年)の竜口法難(たつのくちほうなん)、それに続く佐渡配流(さどはいる)などにもお供をされています。
大聖人への常随給仕のかたわら弘教に努められた日興上人は、伊豆や佐渡、また甲斐や富士方面にも教線(きょうせん)を拡大され、多くの僧侶や信徒を帰依させました。

『波木井日円状(はきりにちえんじょう)』「文頭」
『波木井日円状』 [文頭]
■久遠寺の別当就任(くおんじのべっとうしゅうにん)

日興上人は、弘安5年(1282年)10月25日、日蓮大聖人のご遺骨を捧持(ほうじ)して身延に入られ、身延山久遠寺の別当に就かれました。
地頭の波木井実長(日円「にちえん」)は、弘安8年の書状に「日興上人によって身延における妙法弘通が盛んになったことを大変喜んでおります。日興上人が身延にいらっしゃることは故聖人(こしょうにん「日蓮大聖人」)がいらっしゃることと同じであると思っております。」(波木井日円状「はきりにちえんじょう」)と記しています。

※「別当」とは一山(いっさん)の統括者のことです。

『波木井日円状(はきりにちえんじょう)』「文末」
『波木井日円状』 [文末]
重宝(じゅうほう)を捧持し身延を離山される日興上人
重宝を捧持し
身延を離山される日興上人
■身延離山(みのぶりざん)

弘安8年(1285年)春ごろ、日興上人は、日蓮大聖人の本弟子6人のひとり民部日向(みんぶにこう)が身延に登山してきたことを喜ばれ、日向を学頭職(がくとうしょく)に任じました。
しかし、日向は絵師に絵曼荼羅(えまんだら)を描かせるなど、次第に不法の態度を表すようになりました。また、日向に惑わされた地頭波木井実長は、釈迦一体仏造立(しゃかいったいぶつぞうりゅう)・神社参詣・福士の塔供養(念仏供養塔)・九品念仏の道場建立という四箇の謗法を犯すに至りました。
日興上人は「地頭の不法ならん時は我も住むまじ」との大聖人のご遺言にしたがい、身延の地を離れることを決意され、正応2年(1289年)春、本門戒壇の大御本尊をはじめ、一切の重宝(じゅうほう)を捧持して身延を離山されました。
日興上人は、一時、外祖父(がいそふ)である河合入道(かわいにゅうどう)の館(やかた)に逗留(とうりゅう)されたのち、大聖人ご在世より篤信(とくしん)の士(し)であった富士上野(ふじうえの)の地頭南条時光(じとうなんじょうときみつ)の招請(しょうせい)に応じ、その館に入られました。

この身延離山は、直接的には波木井実長の謗法が契機となりましたが、その真意は「富士山に本門寺(ほんもんじ)の戒壇を建立せらるべきなり」との大聖人のご遺命(ゆいめい)によるものでした。

堂宇(どう)の完成を待つ日興上人と南条時光
堂宇の完成を待つ
日興上人と南条時光
■大石寺開創(たいせきじかいそう)

富士上野の地に移られた日興上人は、地頭南条時光より大石ヶ原(おおいしがはら)の寄進を受けて、正応3年(1290年)10月12日、大石寺を開創され、万代(ばんだい)にわたる仏法流布(ぶっぽうるふ)の礎(いしずえ)を築かれました。

日興上人説法石
日興上人説法石

大石寺が開創されるまでの間、日興上人はこの地にあった大石(おおいし)の上でしばしば説法し、人々を教化されました。

『大石寺開基檀那(たいせきじかいきだんな) 南条時光』
南条時光は、正元元年(1259年)、南条兵衛七郎(ひょうえしちろう)の子として誕生しました。7歳のときに父を亡くし、以後、母と共に信仰に励みました。若くして地頭となった時光は、衣食の乏しいときも、身延の日蓮大聖人のもとに何度も参詣し、御供養の品々をお届けしました。
とくに熱原法難の際は、富士一帯の信徒の中心者として、弾圧を受けた人々を庇護(ひご)するなど献身的に活躍しました。この功績に対し、大聖人は「上野賢人(うえのけんじん)」の称号を贈られています。
大聖人のご入滅後、時光は身延を離山された日興上人をお迎えし、大石ヶ原を寄進して大石寺の開創に尽力しました。
晩年、入道となって大行(だいぎょう)と称し、元弘2年(1332年)5月1日、74歳の生涯を閉じました。

大石寺御影堂(みえいどう)
大石寺御影堂
■令法久住(りょうぼうくじゅう)

日興上人は、永年にわたり門弟の育成に心血をそそぎ、元弘2年(1332年)、
『日興跡条々事(にっこうあとじょうじょうのこと)』に、

一、日興が身に宛て給わる所の弘安二年の大御本尊は、日目(にちもく)に之(これ)を相伝す。本門寺に懸(か)け奉(たてまつ)るべし。

一、大石寺は御堂(みどう)と云(い)い墓所(むしょ)と云い日目之を管領(かんりょう)し、修理(しゅり)を加え勤行を致して広宣流布を待つべきなり。

と記され、日目上人に本門戒壇の大御本尊を相伝し、広宣流布の根本道場である大石寺を譲られました。
翌年正月、本宗の信条・化義(けぎ)などを二六ヶ条にまとめた『日興遺誡置文』を定めて、万代にわたる門下の指針とし、正法を永く後世に伝える令法久住に努められました。