佐渡配流(さどはいる)

日蓮大聖人のご化導(けどう)における佐渡配流の意義は、末法の法華経の行者、すなわち久遠元初の御本仏の立場から真実の法門を説き明かし、御本尊を顕し始められたことにあります。

荒海を超え佐渡へ渡る大聖人
荒海を超え佐渡へ渡る大聖人
■佐渡へ

日蓮大聖人は、越智の本間邸に1カ月近く拘留され、文永8年(1271年)10月10日、佐渡配流のために越智を出発されました。そして、越後国寺泊(えちごのくにてらどまり「新潟県長岡市」)を経て、同月28日に佐渡国松葉ヶ崎(さどのくにまつがさき「新潟県佐渡市」)に着き、11月1日、配所である塚原の三味堂(さんまいどう)へ入られました。
大聖人は翌文永9年の夏には、一谷(いちのさわ)の地に移られましたが、約2年半の在島中、阿仏房(あぶつぼう)夫妻、国府入道(こうにゅうどう)夫妻、中興入道(なかおきにゅうどう)、最蓮房などが大聖人に帰依しています。

塚原三味堂(つかはらさんまいどう)
塚原三味堂
■塚原三味堂(つかはらさんまいどう)

塚原三味堂は、佐渡の守護代(しゅごだい)である本間六郎左衛門重連(ほんまろくろうざえもんしげつら)の館の後方にあり、死人を葬(ほうむ)る所に立つ、仏も安置されていない荒れ果てた一間四面(いっけんしめん)のお堂でした。
日蓮大聖人は、この三味堂の様子について「屋根板は隙間だらけで、四方の壁は朽ち、雪が堂内に降りつもるありさまで、敷き皮を用(もち)い、蓑(みの)を着て、昼夜を過ごした。夜は雪・雹(あられ)・雷電(いなずま)が絶えず、昼は日の光も射(さ)すことのない住まいであった」(種々御振舞御書「しゅじゅおふるまいごしょ」)と記されています。

諸宗の僧など数百人を相手に問答をする大聖人
諸宗の僧など数百人を
相手に問答をする大聖人
■塚原問答(つかはらもんどう)

文永9年(1272年)1月16日と17日の2日間、日蓮大聖人は守護代本間重連の立会いのもと、諸宗の僧など数百人を相手に問答され、完膚(かんぷ)なきまでに打ち破られました。

問答が終わり、立ち去ろうとする重連に対し、大聖人は、近いうちに鎌倉に戦が起こることを予言され、早く鎌倉へ上(のぼ)るように促されました。

一カ月後、大聖人の予言は「二月騒動(にがつそうどう)」という、北条一門の同士討ちとして現れました。この予言の的中により、重連は大聖人に畏敬(いけい)の念を懐(いだ)き、帰依しました。

本間重連(ほんましげつら)の帰依
本間重連の帰依
開目抄(かいもくしょう)
開目抄
■『開目抄』(かいもくしょう)と『観心本尊抄』(かんじんのほんぞんしょう)

日蓮大聖人は、佐渡配流中に50篇を超える御書を著(あらわ)されました。その中でも『開目抄』と『観心本尊抄』はご一代を代表する最重要書です。

『開目抄』は、文永9年(1272年)2月、塚原三味堂において著されました。
この書は、大聖人こそが末法の法華経の行者、すなわち主師親(しゅししん)の三徳兼備(さんとくけんび)の御本仏であることを明かした「人本尊開顕(にんほんぞんかいけん)の書」です。

『観心本尊抄』は、翌文永10年(1273年)4月25日、一谷(いちのさわ)において著されました。
この書は、末法の初めに御本仏日蓮大聖人が出現し、一切衆生のために寿量文底下種(じゅりょうもんていげしゅ)の本尊を顕示(けんじ)されることを明かした「法本尊開顕(ほうほうんぞんかいけん)の書」です。

観心本尊抄(かんじんのほんぞんしょう)
観心本尊抄
赦免の前兆である白頭の烏の飛来
赦免の前兆である
白頭の烏の飛来
■赦免(しゃめん)

文永10年(1273年)2月、時機の熟したことを感じられた日蓮大聖人は、近くの山に登り、諸天に強く諌暁されました。大聖人の一念は法界を動かし、古来、流罪(るざい)赦免の前兆といわれる白頭(はくとう)の烏(からす)の出現を喚起しました。
執権北条時宗は同月14日、大聖人に対し赦免状を発し、その書状は翌3月8日、佐渡に到着しました。
5日後の3月13日、大聖人は一谷を発ち、翌日、真浦(まうら)の津(つ)から出帆(しゅっぱん)されました。そして同月26日、鎌倉に帰着されました。

国府尼御前御書(こうあまごぜんごしょ)
国府尼御前御書
■佐渡の人々への思い

日蓮大聖人は、2年5ヵ月に及ぶ過酷な流罪生活を終えられ、鎌倉へと帰られることになりました。
佐渡在島中、弟子檀越(でしだんのつ)となり、陰で支えた阿仏房夫妻や国府入道夫妻らとの別れを惜しまれた大聖人は、『国府尼御前御書(こうあまごぜんごしょ)』に「さればつら(辛)かりし国なれども、そ(剃)りたるかみ(髪)をうしろ(後)へひかれ、すゝむあし(足)もかえりしぞかし」と、その心情を吐露されています。