法華経の身読(ほけきょうのしんどく)

日蓮大聖人は、北条時頼に『立正安国論』を奏呈されたことにより、他宗の僧侶や信徒、さらには幕府の権力者からさまざまな迫害を受けられました。これは、法華経の勧持品(かんじほん)第十三に説かれる「悪世の中においては、正法の弘教者を悪口雑言し、刀や杖で危害を加える邪智(じゃち)の者が現れる」との経文そのものの相(すがた)です。

松葉ヶ谷法難
松葉ヶ谷法難
■松葉ヶ谷法難(まつばがやつほうなん)

『立正安国論』奏呈ののち、禅(ぜん)・念仏(ねんぶつ)・律宗(りっしゅう)等の高僧たちは念仏の強信者である北条重時(しげとき)と結託し、日蓮大聖人を殺害しようと企てました。念仏者を中心とする者たちは大聖人が住まわれていた松葉ヶ谷の草庵を襲いましたが、弟子たちの懸命な護(まも)りによって難を逃れられました。

※「法難」とは仏法を広める際に受ける迫害のことです。

伊豆配流
伊豆配流
■伊豆配流(いずはいる)

松葉ヶ谷法難を逃れた日蓮大聖人は、翌弘長元年(1261年)5月12日、執権(しっけん)北条長時(ながとき)により、伊豆伊東の川奈(かわな)へ配流されました。
この法難の意義について、大聖人は『四恩抄(しおんしょう)』に「法華経の身読(しんどく)」であり、「如説修行(にょせつしゅぎょう)」であると説き明かされています。

小松原法難
小松原法難
■小松原法難(こまつばらほうなん)

日蓮大聖人は、文永元年(1264年)の秋、母の病気平癒(へいゆ)を祈るために故郷の安房(あわ)に戻られていました。同年11月11日、大聖人は天津(あまつ)の領主 工藤吉隆(くどうよしたか)邸に向かう途中、松原の大路(おおじ)で地頭 東条景信(とうじょうかげのぶ)率いる念仏者らに襲撃されました。
この法難で、工藤吉隆と弟子の鏡忍房(きょうにんぼう)が殉死し、大聖人ご自身も右の額に刀傷を負い、左手を打ち折られました。

蒙古国(もうここく)の使者を乗せた船
蒙古国の使者を乗せた船
■蒙古の使者来る(もうこのししゃきたる)

文永5年(1268年)の初め、日本に服属(ふくぞく)を求める蒙古の国書(こくしょ)が幕府に届き、『立正安国論』の他国侵逼難(たこくしんぴつなん)の予言が現実となりました。

極楽寺良観(ごくらくじりょうかん)への御状(ごじょう)
極楽寺良観への御状
■十一通御書(じゅういっつうごしょ)

日蓮大聖人は、執権北条時宗をはじめとする幕府首脳や鎌倉七大寺(しちだいじ)に宛てて11通の書状を送り、公場対決(こうじょうたいけつ)を求められました。しかし、幕府の要人らはまったく耳を傾けませんでした。

十一通御書の宛先
①執権北条時宗(しっけんほうじょうときむね)
②宿屋左衛門光則(やどやさえもんみつのり)
③平左衛門尉頼綱(へいのさえもんのじょうよりつな)
④北条弥源太(ほうじょうやげんた)
⑤建長寺道隆(けんちょうじどうりゅう)
⑥極楽寺良観(ごくらくじりょうかん)
⑦大仏殿別当(だいぶつでんべっとう)
⑧寿福寺(じゅふくじ)
⑨浄光明寺(じょうこうみょうじ)
⑩多宝寺(たほうじ)
⑪長楽寺(ちょうらくじ)