鎌倉弘教(かまくらぐきょう)

法華経による衆生救済(しゅじょうきゅうさい)の実践。
宗旨を建立された日蓮大聖人は、当時、政治・経済の中心地であった鎌倉へ向かわれました。そして名越(なごえ)の松葉ヶ谷(まつばがやつ)に小さな草庵(そうあん)を結ばれ、弘教に励まれました。

松葉ヶ谷の草庵(まつばがやつのそうあん)
松葉ヶ谷の草庵
■松葉ヶ谷の草庵(まつばがやつのそうあん)

日蓮大聖人は、建長5年(1253年)8月頃から文永8年(1271年)9月までの18年間、鎌倉名越の松葉ヶ谷に草庵を構え、諸宗の誤りを糾(ただ)し、正法である法華経の題目を弘通されました。

辻説法
辻説法
■辻説法(つじせっぽう)

日蓮大聖人は、辻々に立って諸宗に対し破邪顕正(はじゃけんしょう)の弘教を始められました。これを聞いた人々は大聖人に対して悪口雑言(あっこうぞうぞん)を浴びせ、石を投げ、棒で叩くなどの迫害を加えました。
一方、大聖人の確信に満ちた言葉に心を打たれた聴衆には帰依する者も多く、その中には僧侶や鎌倉武士の四条金吾(しじょうきんご)、富木常忍(ときじょうにん)などの姿もありました。

鎌倉大地震
鎌倉大地震
■鎌倉大地震(かまくらだいじしん)

鎌倉では、大地震や疫病などの災難が続き、これらの災害によって人々は塗炭(とたん)の苦しみに喘いでいました。
とくに正嘉元年(1257年)8月23日の大地震は、鎌倉中の神社仏閣がことごとく被害を受け、山は崩れ、家屋は倒壊し、ところどころに地割れが生じました。
大聖人はこれらの災難の起因を明らかにするために、翌年に駿河国岩本(するがのくにいわもと「静岡県富士市」)実相寺(じっそうじ)の経蔵に入り、一切経を閲覧されました。
そして、民衆を救済するために『立正安国論』を述作(じゅっさく)されました。

『立正安国論』
立正安国論
■『立正安国論』奏呈(りっしょうあんこくろん そうてい)

汝(なんじ)早く信仰の寸心(すんしん)を改めて
速やかに実乗(じつじょう)の一善(いちぜん)に帰(き)せよ

日蓮大聖人は、民衆救済と国土安穏を実現するために、国主諌暁(こくしゅかんぎょう)の書『立正安国論』を述作され、文応元年(1260年)7月16日、宿屋入道(やどやにゅうどう)を介して、当時、実質的な最高権力者であった北条時頼(ほうじょうときより)に奏呈されました。これを『第一の国諫(こっかん)』といいます。

『立正安国論』を北条時頼に披露している様子
立正安国論を北条時頼に
披露している様子

『立正安国論』
題号の「立正安国」とは、正法を立てて国を安んずるという意味です。この書は全体が客と主人との問答で構成されており、最後に客が正法への帰依を決意して終わります。日蓮大聖人は、この書の中で、まず人々が正法に背き、悪法に帰依するゆえに善神(ぜんじん)が国を捨て去り、そこに悪鬼魔人が入り込んで災難を起こすと説かれています。そして邪宗邪義への布施を止(とど)め、正法である法華経に帰依しなければ、諸経に予証される七難のうち、いまだ現れていない、自界叛逆難(じかいほんぎゃくなん「自国の内乱」)、他国侵逼難(たこくしんぴつなん「外敵の来襲」)が必ず起こるであろうと予言され、為政者(いせいしゃ)に対して速やかに邪教を捨てて正法に帰依すべきことを説かれています。